『モチベーション革命』を読んで思い出した、四国八十八か所を歩いた時に感じた本当に好きな事

先日『モチベーション革命』という本を読んだ。

簡単にどんな本かを説明すると、『若い世代と中年以降では仕事に何を求めているかが違うよ』ということがいろんな角度から考察されている本である。

例えば上の方の世代の方は仕事に『達成』を追い求めるが、一方で若い世代は『やりがい』や『意味合い』を求めるのではないか、など。

いろいろと有益な考え方が載っている本だなとも思ったのだが、一番僕が心に残ったのは、やはり『乾けない世代』という考え方である。

今の若い世代は生まれ育つ過程において、何も不自由がなかったからこそ、モノへの欲求や関心が薄いのだというのである。

僕はこれについて批判があるわけではなく、かなりその通りだなと感じている。

僕たちが育った平成という時代は、世の中にたくさんのモノがあふれていた。

コンビニに行けば頻繁に新商品が立ち並び、そうかと思えば食材の廃棄ロスが問題だと叫ばれる。
中国人による爆買いもモノ消費からコト消費に変わるなど、人の欲求の変化も激しい。
2年ほど前に出てきたバーチャルユーチューバーは、今では4000人を超える人数が活動しているらしい、もはやコンテンツですら飽和状態である。

小さいころから自分の欲求を満たせるのが当然であり、結果として何をモチベーションに仕事をすればいいのかがわからない。
そんな人がいま増えているのだという。

やりたくないのに押し付けられた習い事は全く身につかないのと同じで、お金のためだけに頑張る仕事はただただ辛い。
だからこそ『自分が何に意味を感じて仕事をするのか』を、もう一度ちゃんと考えてみることも大切なのである。

偏愛マップを作ろうと言われても・・・

『そんなこと言われても自分がやりたいことがわからないから、こっちは今苦労してるんであってだな・・・』

おそらくここまでを読んでそう思われた方もいると思うし、そんな声があることくらいは著者の方も見抜いている。

そんな方のために、この本では『偏愛マップを作ってみては?』と提案されている。

『偏愛と言えるほどに、人には理解されないけれど、自分が好きで好きで仕方がないものは何なのか?』を探してみれば、意外と自分の活動の源泉のようなものが見えてくるだろう、と仰られている。

が、正直これはある程度見切りがついている人のための話だと感じた。
そもそも何かを自信を持って好きだと言えるような人は、こんなものに頼る必要がないと思うのである。

僕のように『中途半端に好きというものはたくさんあるけど、これを偏愛とまで言っていいのだろうか・・・』と思っている人はどうすればいいんだと思うのが、読んだ時の正直な感想だった。

自分の偏愛の見つけ方、それは『我慢すること』

じゃあ一体どうすれば自分の好き、偏愛が見つかるのか?

僕が考えた、自分が自信をもって好きだと言えるものを発見する方法。

それは『我慢する』ということであった。

空腹は最高のスパイスだ、なんて言葉を聞いたことはあるだろう。

沢庵和尚が時の将軍家光公に、
『贅沢のし過ぎで口が贅沢になっているから味がしないのだ。空腹になればたくあんでもこんなに美味い』
と、空腹であることが美味さを演出するから、お腹を空かせてからご飯を食べなされと諭した、と言われる有名な逸話だ。

最近のゲームはつまらなくなったなんてのもよく聞く話だけど、それもゲームを手に入れるまでのハードルが低くなったからだと思っている。

昔のAVの方が興奮したって話にしても『昔の方がAVを見るまでの助走期間が(見るまでの大変さが)長かったからだ』という意見に強く同意したいところだ(これに関しては、最初に見たAVで性癖を固められたんだろという説も否定できない)

『大切なものは失ってから気づく』なんて話もよくあるけれど、どんなものであれ『人間満たされているから気づかない』ということは多々あるのである。

とすれば逆に考えていけば答えは出る、つまり満たされていない時代、我慢をしていた時代を思い返せば自分の好きなことに気づけると考えたのだ。

四国八十八か所巡りで気づいた、自分の偏愛


具体例で考えてみよう。

僕は昔、四国八十八か所を徒歩で巡ったことがある、当然ながら辛いことはいろいろあった。

毎日のように足が棒のようになる感覚。
3日目にして既に足の小指の爪が剥がれ落ち、かかとに謎の痛みを感じた。

大雨の中でも歩き続け、地図も確認できずに、自分が歩いている方向が本当に合っているのかさえわからない。
そんな不安と痛みを抱えながら歩く日も少なくはなかった。

しかし本当に辛かったのは肉体面ではない、精神面である。
辛い辛いと言っても、やっていれば体は慣れてくる、そんなものはどうとでもなるのだ。

こんな誰もいない真夜中の公園にテントを張って寝ることすら、すぐに慣れる。

僕にとって一番つらかったのは『とにかく暇だった』ということだ。

と言っても、歩いているときは無心で歩き続けるし、ゆったりとだが変わっていく景色を見て癒されてと問題にならない。

問題なのは宿の時間だ。

今の時代であれば、多少負担が増えてでもタブレットなどを持っていって電子書籍でも読めばいいのだろうが、僕が歩いたのは8年前の2010年。

当時はまだ電子書籍は一般的とはいいがたく、スマホもようやく持っている人が増え始めたなと思い始めたころだ。(僕もこの年の終わりにようやくガラケーからスマホに乗り換えた)

ガラケーでやれることは少ない。
スマホならパソコンと同じようにYoutubeを見たり、ネットサーフィンをしたりと楽しめよう。
だがガラケーではそういう訳にもいかなかった。

次の日に歩くルートを確認しようにも宿に着く前から大体の見当はついているから確認するまでもなく、したとしても5分もあれば終わってしまう。

自分と向き合う時間がたっぷりあることは良いことだとは確かに思うのだけど、それでも限度というものはあるのである。

じゃあいったい僕が何に楽しみを見出していたのか?

それは『友人への電話』『mixiに日記を綴ること』『夕方18時から始まる「天才テレビ君」の視聴』の3つである。

この時、僕は22歳だった。
22歳と言えば、もう立派な大人と言われてもおかしくない年齢だ。

そんな年齢の僕が『天才テレビ君』を真剣に見てゲラゲラと笑っていたのである。

今思うと『そんな笑うほど面白いか?』という、当時友人たちから貰った至極まっとうな意見はすごくよくわかるのだが、この時の僕は箸が転んでもおかしい年齢よろしく、何を見ても面白いと思う極限状態だったのである

ちなみにこの時、友達に『天才テレビ君』の面白さを10分くらいかけて真剣に伝えたのだが「早く下界に戻ってこいよ・・・」と妙に優しい声で慰められてしまった。(せっかく月曜日が最高に面白い、火曜日が次点だとアツく語ったのに・・・)

で、だ。
天才テレビ君はまあ置いておいて、それ以外の2つに注目してみると、ここから僕は『自分が面白いと思ったことを誰かに伝えるのが好きだ』ということがわかるのである。

「単純にやることがなかったからだろ?」と言われれば否定はできない。

しかし宿に泊まれば、部屋には一応テレビという娯楽もあったわけで、それを見るよりも『まずは今日のことを誰かに伝えたい』という気持ちが先行していたのは事実なのである

しかも、どんなに疲れていてもこれらを欠かすことはなかった

他にやれることがあるにもかかわらず、それでも優先して自分からやったこと。
何にもない状況であっても、それでもやりたいと思うほど好きな事。

確かにこれを偏愛といえるほどかと言われれば微妙かもしれない。
だけど確実に好きだと胸を張って言ってもいいだろう、くらいには思うのである。

まとめ

まあ結局何が言いたいかというと『自分が好きなことをちゃんと好きだと認識するのって、意外と難しいよね』ということ。

特に僕のような『世間一般から見たら間違いなくオタクなんだろうけど、オタクから見たらほぼパンピーやんけって思われるんだろうな・・・』というすべてにおいて中途半端な人間は、『自分ごときがこれを好きだと公言していいのだろうか』と戸惑うことが結構ある。

自分が好きなことを好きだということも、クソリプを飛ばされまくる昨今では、なかなか勇気がいる行動だ。

しかしどんな変態趣味であろうと自分が好きなことを好きと言えないのも非常に悲しい。

そして自分の好きがなにかわからないというのも、なんだか寂しい話である。

どんな人にも自分にしかない好きは必ずあると思うし、そういうのを見るのが僕は非常に好きなので、ぜひみんな、自分のやべえ嗜好好きなものを表に出していこうね。

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